私のSUZUKIと早戸川 連載・第7回


交機隊に転勤になり、白バイの訓練種目にあったトライアルを始めて7ヶ月目の全日本早戸川大会、ものすごく強烈なインパクトですっごい記憶があったんで、前回まで思い出話しを、けっこう詳しく長ったらしく書けたの。

でもこん時から10年後、警察やめて世界選手権を走りに行くわけだけど、この10年間で2度全日本チャンピオンになったり、他、練習中に転んで右膝の靱帯伸ばしたりや、色々なことがあったし、結婚もしたり子どももできたりとあったんだけど、不思議な事に真剣にやった10年間の全日本のことはそんなに記憶なし。

その全日本に見切りをつけて、その後、35歳の時に大阪府警を円満退職して、長男の健一を連れてヨーロッパの世界選手権を2年間走るわけなんだけど、これは各国の大会やセクションを含め、また私生活の苦労や楽しかった事こと等々、今でも当時の記憶がけっこう鮮明に大あり。

イギリスの大英博物館なんてタダだから7回も行って、今でもあらかたの建物配置案内地図が描けるくらいに覚えてる。ここに展示されているほとんど、大きなものから小さなものまで、私に言わせると見た瞬間「戦利品・略奪品」ですよ。

それはそうで、一時代のイギリスは“陽の沈まない国”と言われるほど、世界中に植民地を持っていて、その国の国宝やなんやかんや持って帰ってるんだから当たり前。

大きなもののほとんどは、エジプトの彫刻石なんだけど、瞬間「あの時代にどうやって持ってきたんだろう」と思わずにはいられない巨大さ。ふつうの家一軒くらいの大きさですよ。

イギリスは今、持って帰ったその国から「返せ」と言われて国際司法裁判所に訴えられているけど、ルーブル美術館を始め、フランスもたくさんの戦利品を展示していますが、フランスは訴えられません。なぜって理由は簡単で「イギリスは奪って帰って」「フランスは買って帰った」から。

戦利品・略奪品を持って帰るのに上手だったのはフランスで、いずれ将来「返せ」と言われるのが分かっていたのか、微々たる額の涙金だろうけど、建前上は「買った」にして領収書も手に入れてフランスに持って帰っている。

だから今でもフランスは、戦利品・略奪品は「奪って帰った」ではなくて「買って帰った」で、国際司法裁判所も手が出ない。

なんてことを書き始めると、トドメがないくらいに覚えていてガンガン書けるけど、ことこれ以前の、日本での全日本のことなんてほとんど無理。

考えてみるに「真剣にやったのは記憶に残らず」「真剣にやらなかったのは記憶に残ってる」のかもしれないね。
また、楽したのは覚えていないけど、苦労したのはいつまでも覚えている、のも、逆また同じかもしれない。

はい、早戸川大会の目的は「見取り稽古」、つまり見てのお勉強で自分の走りや成績はどうでもよし、つまり真剣にやっていない。

2年間の世界選手権は「世界に触れたい」がメインで、勝負する気なんて初戦のスペイン大会で“ガツン”ってやられて以後まるでなし、つまり真剣にやっていない。だから二つともに今でも鮮明に覚えているのかもしれません。

この世界選手権挑戦とSSDT挑戦のお話は「暴露版、今だから書けるヨーロッパ話うんぬん」で、順番に年次を追って詳しくおもしろ話を書くんで乞うご期待。

どっこい、10年間やった全日本はほとんど記憶にないどころか、記憶も断片的でつながらないの。
でもまあ全日本のことも、記憶回路を充電しなおしてなんとか思い出して書いてみますね。

●1976年、一度目のトライアル全日本チャンピオン
(なんで白バイ全国大会を目指さなくなったのか)

交番所のお巡りさんを5年やって24歳の時、白バイに乗るべく交通機動隊に転勤になり、まずは専門的なバイク操縦訓練を受けます。

水泳やったり陸上やったり柔道やったして、まったく鳴かず飛ばずだったのが、白バイというかオートバイにまたがり操縦してみると「機械を操ると誰にも負けない素質」があるのを知って、あとはこの道一本。

「機械を操ると誰にも負けない」ってなんで分かったのかというと、白バイ全国大会訓練を何年もやっている先輩よりも、いきなりやったこっちの方がぜんぜんうまいから。

たとえば白バイで渡るS字の一本橋、先輩みなさんバコバコ落ちるけど、こっちは片足あげても余裕で渡りきって簡単。自慢する以前に、単純に「なんでこんなん皆な行けんのやろ~不思議??」ですよ。

見切ったS字一本橋になった時分、白バイで左手離して傘を広げて高く挙げアクセルワークだけで渡り、まるでサーカスまがい。ナナハンで後ろ乗りして80キロくらいでのブレーキターン、後ろ向きだから右手でクラッチを握り左足のかかとで後ろブレーキを踏むのも、これもいとも簡単にマスターしたの。こんな芸当、大阪府警で誰も出来っこなし。

安全運転目的の白バイだから、こんな芸当できても使い道はないけど、バイクメーカーにいたら、たぶんデモンストレーションかなにかで使われていたと思う。

交機隊に転勤した年に、普通は3~4年後なんだけどいきなり頂点、その年の全国大会を目指し、人生のすべてをかけて、というよりも「それが仕事だから当たり前」なんだけど、精一杯がんばって晴れて大阪府警代表選手。

春に白バイ乗って秋の大会初出場、いきなり出ていきなり個人総合全国2位になり「よおし来年は白バイ日本一に」と、今は死語の言い方で言うと「ふんどしの紐を締め直し」たところが、この年次から規則が変わって「個人総合6位以内入賞者はもう出られない」んだって。

こんなん言われたら、ふつうは横に寄っただけで火がつきそうな情熱が消えてしまいフ抜けになるんだけど、どっこい、その火のつきそうな情熱がそのまま白バイ大会から一般トライアルに燃え移ったの。

これって、白バイ大会が終わった後にひやかしで参加した「本物の早戸川トライアル」を見たからなんだろうね、きっと。

なんでもそうなんだろうけど「本物を見る知る」は、頂点を目指す若者には大切で、これで「意気消沈」するか「よおお~し、やってやる~ぅ」になるかが大きな分かれ道。私の場合は、早戸川で頂点のライダーを見て「こん人らには3年で勝てる」と思ったのが、トライアルのスタート第一歩。

(なんでモトクロスを目指さなかったのか)

白バイ大会の種目の中にトライアルはもちろん、言い方は「不整地走行」ですが、一人で走るタイム競技のモトクロスもあります。

蛇足ながら参考までに、私め白バイ大会本命のトライアルは1回足をついて総減点1点だったけど、福岡県警にオールクリーンがいてトライアル部門は全国2位。かたや、不整地走行(モトクロス)は最高タイムを叩き出して全国1位。だからこの時点では、トライアルよりもモトクロスの方が向いていたのかもしれない。

「本物を見る知る」は、頂点を目指すか意気消沈するか、のどっちかなんて書いたけど、いきなりモトクロスの頂点の走りを見て、トライアルと正反対で“意気消沈”したからモトクロスはやらなかったのが本当の理由。

SUZUKIのトライアルナンバー1ライダーの名倉さんに稽古をつけてもらおうと、浜松にある竜洋テストコースにお休みの時にノコノコ出かけたの。この時点ではモトクロスもまだ自信を持っていて「SUZUKIといえばモトクロス」の黄金時代だから、本物はどのレベルか見てやろうの気持ちあり。竜洋テストコースにはモトクロスコースもあって、トップライダーが毎日練習してた。

で、そこで見てしまったのです、当時、全日本最上級セニアクラスで「完走すると必ず優勝か、2位以下はなくてすべて転倒リタイア」というクレイジー増田耕二さんの走りを。増田さん、全力でなくて体慣らしの走りでしょうけど、見た瞬間「この歳から始めても、どうやってもあの人には勝てん」と本能的に思ったわけ。

増田さんも「警察官で根性のあるのがいて武者修行に来ている」と興味があったのか、ハイスピードでのコーナーの曲がり方とか他いろいろ教えていただきましたが、すべて力半分の模範演技なんだろうけど、その腕前とスピードのすごさ、何年やってもこの人に勝てるとはとても思えなかった。

以後、増田さんがSUZUKIでモトクロスのチャンピオンになり、HONDA HRCにヘッドハンティングされて移籍したり、アメリカのスーパークロスに2シーズン走ったりでいろいろありましたが、これがご縁で今でもおつきあいさせていただいています。

トライアルは一人で走るからそんな事はないけど、モトクロスはバイクを使ったケンカで、増田さん、ハンドルがからまって憎き相手と共倒れ転倒した時、お互いにヘルメットぬいでその場で殴り合いのケンカをしたことが3回あるんだって。

今なら厳重注意じゃすまないことなんだけど、当時はそれもまたモトクロスの範ちゅうでおとがめなしで終わり。

それと大会中に前を走っているのが転んで、余裕で避けられるけど、にくい相手だったんでかまわずに体の上を引いていったことも3回あるんだって。でもやっぱり、自分自身の後味の悪さに今は「やらなきゃよかった」と反省はしているそうです。

のような話を聞くにつれ「俺にはそれは性格上できん」で、できんのはトップライダーにはなれない、んでモトクロスをしなくてよかった、というのもあるの。

柔道軽量級日本一を目指して大阪府警に行ったら、オリンピックレベルの人から「お前は素質がないから柔道以外のことをやった方がいい」ととどめを刺され、モトクロスは増田耕二さんから無言で「お前は俺には勝てん」ととどめを刺され、「警察やめてトライアルのプロになりたい」とSUZUKIに熱望しても「警察でトライアルを続けなさい、それの方がチャンピオンになれる」とマン島TTレース優勝者からとどめを刺され、今考えるとすべて正解で、良い先輩アドバイザーがいて、それをすんなり根性なくおおせの通りにした私もすごいでしょう。

良い先輩アドバイザーに巡り会う、これも運、これも財産ですね。それとやっぱり、その道のすごい人の言う事は聞くもんですよ。

●一発勝負の全日本SUGO大会で勝つ

木村治男さんの自己紹介は「初代全日本チャンピオン」で始まりますが、私も「1976年と1981年の二度も全日本チャンピオン」が自慢の売り。
そして、木村さんも、私の1976年の最初のチャンピオンも、同じ「一発勝負のチャンピオン」ですね。

のように、全日本って以前は「年一回、11月の一発勝負」でチャンピオンを決めていました。ですがいつの年次からか知りませんが、年間何戦かやってのシリーズ戦になり、一発大勝負チャンピオン、裏から言うと「まぐれの大当たりチャンピオン」はなくなりました。

年一回、11月の一発勝負チャンピオンがすべてそうだとは言いませんが、私自身が最初のチャンピオンになった’76年のチャンピオンはまさにそれ「まぐれの大当たりチャンピオン」だったから、私自身のことは声を大にしてそれが言えるのです。

はい、一発まぐれ会場は仙台のSUGOです。

  1. まず絶対に勝てない近藤博志さん(現エトスデザイン社長)がヨーロッパに行っていていなかったこと。
  2. いつも練習している裏山の滑る地形に似ていて、あげく前の日に雨が降ってヌタヌタ地面だったこと。
  3. 関東のルーキーの誰かが前日土曜の調整練習で左人差し指を脱臼したこと。
  4. 1ラップ目が調子がいい私にとって、なぜかこの大会だけ30セクション×1ラップだったこと。

等々がからみあって勝った原因とは言いませんが、まあ、運が味方していたのもありますね。

当時の全日本、浜松から東側は一度SUZUKIの本社に寄ってマイSUZUKIキャリーをそこに置いて、SUZUKIのワークストラックに乗せてもらい連れて行ってもらっていました。

記憶では金曜の夜は浜松に住んでいる名倉さんの家に泊まらせてもらい、土曜は仙台SUGOの近くの私の言い方の死語「連れ込み旅館か木賃宿」にメカみなさん総勢で泊まった記憶あり。

土曜の夜のミーティングで、

◎明日の大会は30セクション×1ラップである。
◎コースがかなり長く作ってあるから、真ん中の地図のこのへんでメカがガソリンを持って待っているから入れろ。
◎バイクのスペア部品は、ヒップバックにレバーとか簡単な部品と工具を入れて、腰に巻いて走れ。

 だった気がする。
当然のごとく、私以外のSUZUKIのライダーもメカもお酒は飲まない夕食だったけど、私一人“タダ酒”を浴びせ飲みして、明日へのプレッシャーなんてどこ吹く風で爆睡。まあ結果、これがよかったのかもしれない。

この勝ったSUGO大会当日のお話、鮮明に覚えているのは以下の3つだけで、あとはまったく記憶なし。

●その1/大会中のガソリン給油の事

SUZUKI/RL250のアルミガソリンタンクは何リットル入ったんだろう。当時は4メーカーのHONDA、YAMAHA、SUZUKI、KAWASAKIの各社ともイギリス人ライダーと契約して、トライアルバイクはコースを走る海外用に作ってあったんで、SUZUKIの場合はゴードン・ファーレーのアドバイスでタンク容量もそこそこ入ったと思う。

今の人は、仙台SUGO大会会場のトライアル、けっこう狭い範囲しかトライアルする場所を知らないと思う。でも、このヤマハ発動機(株)所有のSUGOの敷地は広大で、見渡す山すべてがそうだとは言わないけど、けっこう広々な山々がヤマハの所有地。

だから今は、ロードのコースとモトクロスのコースは全然別の離れた場所に作ってあり、お互いにその爆音さえ聞こえない距離離れていますが、すべてヤマハの敷地内。

で、当時のこのトライアルSUGO大会はこの広大な敷地内をくまなく全周回るコースが設定してあって、とんでもなく距離が長かったの。

前半を終わってコースの真ん中らへんに約束通りにSUZUKIのメカの人が待っていて、そのメカの人がガソリン給油をしてくれて、持っていた水とチョコレートとビスケットをもらって飲んで食べたのを今でも鮮明に覚えている。

当時は、スポーツをするのに競技中は水分補給してはいけない、の考えが多少まだ残っていて、ヒップバックに「水や食べ物」を持って走る発想というか習慣がありませんでした。

で、けっこう喉が渇いてカラカラでお腹も少し空腹だった時に出されたもののありがたさは、41年たった今でも忘れるはずがない。

中学生の時にボーイスカウトに入っていて、富士山の八合目まで登って降りてきてテントの中で冷え切った体に、湯を入れただけの暖かいチキンラーメン食べた時の美味しさの記憶がいまだに残っているのと同じです。

このすり込みがあるから料理の美味しいまずいの基本は、申し訳ないけど「空腹かどうかがすべて」が、今だに私の持論です。

大会終わってそのメカの人に「チョコとビスケットが助かりました」とお礼を言うと、イギリス人がテストで来日した時、立ち食いみたいな感じでチョコとビスケットをほうばっていたから「トライアルにはチョコとビスケットなのかなあ」と思っていた、だって。

そのSUZUKIのメカの人、そこまでの成績の事は一切聞かず「よし、すべてOK!!」とだけ言って送り出してくれて、警察みたいに「根性でがんばれよ」の、ありきたりの激励がなかったのにびっくり。

警察だったら、このパターンはまちがいなく「がんばれよ!!」「後半気合を入れろよ」「死ぬ気でやれ」「根性見せろ」「闘魂特攻攻撃」「勝ったら焼肉、負けたらソーメン」の声をかけて送り出します。

興味半分、大会やっている最中に「どうですか? がんばってください」なんて、聞かないし言わないところが、さすがにレース専門職ですね。

やっているこっちとしては、これの方が助かります。

●その2/2連続セクションで奇蹟の合計1点を叩き出す

今の全日本というよりも、過去にも現在にも全日本のセクションで、二つのセクションが連続してつながっているのなんて記憶にありませんよね。連続セクションって、ようするに二つのセクションがつながっていて、一つ目の出口が二つ目の入り口になっていることで、ひとつ出ても、そのまま次のセクションに入るという事。でもこの方式は沢を走るSSDTではごくふつうで、ほとんどすべてがそうで二つどころか、三つ連続の方が多いかもしれない。

なんでこんな連続セクションを一箇所だけ作ったのか分かりませんが、実はこの連続セクションが私の「勝ち」、つまりチャンピオンを決めた奇蹟のセクションでもあったのです。

人生あとから考えるに「あの時の、あれが分かれ道だったんだぁ~」という事が多々ありますよね。このGPで勝ったのも、この連続セクションの「まぐれの1点」だったのです。

林の雑木林の中の“昼なお暗き”場所に多くのセクションが作ってあった大会だったけど、コースを半分過ぎて給油して最初のセクションがこの連続セクションでした。沢ではありませんでしたが、沢のようなゴロゴロ丸石が50メートルほど続く場所で、あげくに大会前日に降った雨のおかげでツルツル岩になり、これを左右のカードで規制しているの。高低差はそんなにないけど、丸い岩と岩の間にはまりこんだら、まずバイクがストップして、押しても引いても、後ろタイヤが空転して前に進まずにっちもさっちもいかなくなります。

最初のセクションでバイクが止まって5点になったら、そのままバイクを押したまま次のセクションに「入らざるをえない」もんだから勢いがついてなくて、まず次も必ずバイクが溝にはまり込んで5点。下見している範囲のトップライダー全員が5+5の10点をいただき、運良く最初が3点でも、次に勢いがついていないから5点で、3+5の8点だったら「よかった、よかった」となるセクション。

はい私め、ここをなんと0+1の1点で抜けたのです。なぜか一回も止まらず、スピードも変わらず、ヘレヘレフラフラとあれよあれよと言う間に出口まで行ってしまい「えっ1回しか足を付いてなかったバイ」状態。このセクション図と走りライディングを今でも鮮明に覚えてる。

結果、2位は確か男/加藤さんだったと思うけど3点か4点差で勝って、このセクションの点差勝負で勝ったのはまちがいなし。

●その3/早く帰りたいのに 宇都宮で一泊

SUZUKIもトライアルで念願のチャンピオンもとった事だし、万々歳でその年の〆。勤労青年民間人のこっちとしては明日の月曜は仕事だから、仙台から早く大阪に帰りたい気持ちでいっぱい。どっこい、SUZUKIのマネージャーの方が申しますには「会社の規則で日没後2時間以上は運転してはならない」そうだって。で、仙台から1時間半ほど東京に走った栃木県の宇都宮で強制一泊。

はい、当時は“東北自動車道”なんてありませんから、すべて地道です。

どんなところに泊まって、どんな晩飯を食ったかまったく記憶になし。もち、チャンピオンをとったんで少なからず祝勝会をしてもらったと思うけど、これもまったく記憶になし。

こっちは交機隊に「明日の月曜も休みます」の言い訳を、どう連絡しようかで頭でいっぱいだったのを覚えてる。
勝ってはじめて全日本チャンピオンになった夜は「宇都宮に泊まった」というだけの記憶しかない、勝った日の夜の記憶である。

SUZUKIの本社にマイ軽トラを置いているんで、月曜はもちろんSUZUKIの本社に寄って帰ったはずなんだけど、本社でチャンピオンをとったお祝いの言葉もなければ祝勝セレモニーもなにもなし。

今から考えてみると、こっちは一般人とはいえ“軍律きびしい警察官”だから、警察公務員がSUZUKIとの癒着やなにやらの事を考え、そっとしておくのが私のためになる、の判断だったと思う。

関西風に言うと「ええ格好しい」だから、当時は「チャンピオンとってもSUZUKIは何にもしてくれなかった」の不満もあったけど、結果「祝い事も契約金も賞金も」なにもなくて、ただあったのが「バイクと部品の貸与だけ」なのが、これが以後、私が現職の警察官ながらSUZUKIのトライアルトップライダーとして長く続けていくためにはベストの判断でした。

SUZUKIのレース関係者も、相手の職業をみて援助というか態度を選んでいるってわけ。「若手を潰さずに育てる」ってことにはメーカーはたけていますね。

ただその後日、SUZUKIからは、チャンピオン獲得の記念品として高価な「セイコーからくり置き時計」をいただきました。それは今でもうちにありまして、白バイ大会個人総合2位の賞品ローレックス/シーマスター腕時計といっしょに並べて棚の上に在庫しています。

セイコー置き時計は当時では珍しい電池式で、今は電池を入れていないんで動いていないけど、ローレックスの方は古典的な手巻きなんで、今でもリューズをくるくる回して時々動かしています。そして裏側のフタには「49.11.10 第6回全国白バイ大会第二位」の刻印が打ってありますね。

「お父さんが死んだらその腕時計はぼくにちょうだいね」と健一に言われ、すでに遺品扱いですよ。

白バイ大会の賞品の腕時計の裏に“49.11.10”と刻印があるって書いたけど、私がはじめてモータースポーツ頂点のトライアルチャンピオンになったのが“51.11”でしょう。で分かるように、トライアルをゼロの25歳から始めて3年弱で頂点に立っていますが、今とは時代がちがうと思うんだけど、今でもことトライアルに関して人生のすべてをかけてやり、うちのチームで指導すると“5年で頂点に立てる”その自信あり。

まあ何事も「本人のやる気と指導者次第」ですね。