私のSUZUKIと早戸川 連載・第6回


黒山一郎さん自身が描くこのイラストと文章を懐かしく思われる方が多いと思います。現在の黒山一郎さんによる復活最新版、書きおろしの連載。SUZUKIと早戸川シリーズ、いよいよ大詰め。

◎自分は7位か8位か覚えていない

この大会、私って何位だったんだろう。7~8位だったような気がするけど、まったく順位に興味がなくて、早く帰って「見たこと新しい乗り方」の練習をしたいのが、いの一番。

人生で一番「ワクワクどきどき」の時代で、まさに「トライアルすることが面白くてしかたがない」んだったんだろうね。10年後、私が警察を辞めてヨーロッパに出て行ったのも、日本でのトライアルに「ワクワクどきどき」がなくなってしまったのが、一番の原因だと思う。
今、野茂やイチローや松井やダルビッシュ、他、多くのプロ野球選手が、大リーグに移籍しているけど、この人たちも日本での野球に「ワクワクどきどき」がなくなってしまった、のだと思う。サッカーの海外移籍組もそうだよね。

単に「ワクワクどきどき」のためだけに、超安定した職業公務員を辞めて次の新天地を求める。おじいちゃんとカミさんと子供3人いて、長男だけ連れて本場ヨーロッパへ旅立つ。
かっこいいでしょう? でも一応は「行って成功した」から言える言葉であって、朽ち果て敗残兵落人で帰ってくると今頃はホームレスで、黙って下を向き口を閉ざしている。

小学時代は水泳部、中学時代は陸上部の長距離、高校時代は柔道部。で、警察に入って引き続き柔道やっていたけど、そうは背丈も体重も変わらない本物の柔道オリンピック級の選手に出会い、ぶち投げられて「こん人みたいにはいくら練習してもなれない」と、本能的に思い挫折。

いじけてチマチマ交番勤務している時に白バイに出会って、「機械を操る操縦する才能」があるのに目覚め自覚。自分の体をぶち当てる体力勝負のスポーツよりも、機械を操るスポーツの方が向いているのを知って、一生懸命やっていた柔道をすぐにやめて、即、モータースポーツのトライアルに転向。

結果、行くところまで行って思い残すことなく朽ち果てた、という私の沿革ストーリーですが、そもそもの原点はこの早戸川ですね。
先月書いた、男/加藤文博さんのケースと同じで、夢を持って「自分に合う何か」を探していれば、いつかは出会うということです。

 

◎使ったRL250Lワークスをそのまま持って帰る

大阪に帰ればまたヤマハTY250Jに乗るしかないと思っていたら、早戸川で7位だか8位に入ったからか、トライアルに打ち込む姿勢が伊吹健次に近かったからなのか「ヤマハにどうしても乗りたいのなら別だけど、今回乗ったスズキでもいいのなら使ったRL250ワークスをそのまま持って帰れ」と名倉さん。

スズキのSRS(レーシング部門)も、エキスパートクラスの社員ライダー名倉さん一人じゃ心細かったのか、もう一枚若いカードを探していたみたいで、こっちに白羽の矢が刺さる。

以後、スズキのトライアルといえば黒山一郎、の悪夢の時代が始まるのですよね。結果、スズキで2度全日本チャンピオンをとったから、スズキのこの当時の配慮厚遇にはお返しはできたかなっと、自画自賛勝手に思っています。

以後の、ヤマハは木村、ホンダは近藤、スズキは黒山、カワサキは加藤の4メーカー4ライダーがしのぎを削った、第一期トライアル黄金時代はすごかったのですよ。「ホンダの山本昌也」対「ヤマハの伊藤敦志」のバトルは、第二期トライアル黄金時代になるの。

こん時から話は30年以上すっとび、今から2年前、2015年末に「スズキレース関係者&ライダー忘年会」という催しが浜松グランドホテルであって、招待状が届いたから末席ながらお邪魔しました。

この時、当時トライアルに関係した人々の想い出話にこんな話題がありました。
「スズキにとって、5年で撤退したトライアルとはいったい何だったのか」
結果、日本人によるトライアル世界チャンピオンライダーの誕生も、息子さんの全日本チャンピオンライダー誕生も、黒山君がいなければありえない話で「指導者、黒山君をいちから育てるためにスズキはトライアルをやったようなもの」「マシン作りでなくて人作り」の、結論のようでした。

はい、ライダーとしての素質はあんまりございませんでした私としては、私が現役をやめてから「すでに上手なできあいの若いのじゃなくて、ゼロから子供を育てたことにおほめをいただきまして」異論はございません、仰せの通りでございます。

私にとってトライアルとは、今現在のトライアルをまだ仕切っている全日本現役トップライダーの面々、つまり元少年ブラック団チームのトライアルライダーを誕生させるための、咬ませ犬(試し人)だったのかもしれませんね。

 

たぶん、全日本四国大会の高知県・正蓮寺の会場だと思うけど、私のライディングを見ている人は、今は東北のトライアルを仕切っている畑山和弘さんです。日本の文化で「鳥打帽(ハンチング)」をかぶる習慣はないけど、右上の人のように、当時はミック・アンドリュースの影響か、ヘルメットメーカーのBELLのハンチングをかぶるのがはやってた。

 

[指導者とは]

思うに私は、自分自身が大声を出して先頭を走るから、たとえば「右向け、右」と言えば右を向いてくれる「甲子園を目指す高校野球までの監督」としてなら、すごい実力があるのかもしれません。

ですが「自分で自分のことができる」ようになった、社会人野球とかプロ野球の指導者は向いていない、のかもね。
今、男も女も「駅伝」が盛んですが、これも「高校駅伝、大学駅伝、社会人駅伝」と、おおざっぱに3つに分かれます。

一番むつかしいのが「子どもでもない大人でもない大学駅伝」という言葉があるように、発育途上の人間を扱うのはことのほか難しい。
今年、箱根駅伝を3連覇した青山学院大学の原監督は「社会人チームは永久就職で切迫感がない、高校や大学は期限を決められて仕上げないといけないから、毎日が期限との戦い」と申しています。

先代ブラック団は期限10年、女子部は期限5年で、その通り解散しました。これは自分の中で決めていた年数です。
今、直系の孫を育てていますが、これとて「中学生で、今でいう国際スーパーA級チャンピオンにならなければ、世界には連れて行かない」を、孫たちに念仏のように洗脳しています。

だって、黒山選手も藤波選手も、中学生で日本の頂点に立ったんだから当たり前でしょうが。期限という目的は、事を成すためにはとても大切ですね。
まあとにもかくにも「名選手、名監督名コーチにあらず」は、当たっていますよ。

メーテルこと小谷芙佐子さんは、昨年、女子6人目のトライアル国際B級に昇格なさいました。
先代ブラック団の子供達と同じく、この方も私がゼロから見つけ出してきて育て、5年経過してあるレベルになって私が教えるのは限界になって、ヤマハ発動機(株)直系の「Victory blue team(ビクトリーブルーチーム)」に追い出しました。

名前は智恵子だけど、通称“知恵のないちえ子”もそうで、なれるはずのない国内A級に昇格して私が教えるのはもう限界になり、地元広島でご主人と二人三脚で頑張ってもらうよう追い出しました。

はいこのちえ子、昨年度、全日本レディスランキング4位の快挙を成し遂げましたが、メーテルがランキング3位だから、すごいでしょう。彼女、自分で公言しているから言ってもいいけど、ちえ子には孫がいる“おばあちゃん”だから、なおさらすごいのです。

のように“教える指導する”ということはイギリスの訓話「ゆりかごから墓場まで」ではなく、いつかある時期には巣立ちをさせるのがベストなのかもしれませんね。

さてこの忘年会、当時のSUZUKIのSRS(レーシング部門)の最高責任者、マン島TTレース日本人初優勝者の伊藤光男さんも、元気にお姿を見せられました。

当時若かった世間知らずの私は、かっこうのいい契約プロライダーになりたくて 「トライアルをもっとやりたいから、大阪府警を辞めてスズキの契約社員ライダーとして雇ってくれ」と、執拗なまでの申し出をしたもんですが、頑固なまでにそれを否定して 「大阪府警で趣味の範囲内でトライアルを続けなさい」と言って説得してくれたのも、御大、伊藤光男さんなのです。

今考えてみるに、当時の私の性格からして、まさに正解でした。

◎かっ飛んでその日のうちに帰路、大阪を目指す。

大もめのあとの表彰式が終わって、夜の何時になったんやら記憶にないけど、その日深夜に静岡県磐田市の名倉さんの家まで帰ってきて「泊まっていけ」のお誘いを「明日は仕事があるから」でご遠慮し、スズキ本社から名倉さんちまで運んでもらっていた、私のスズキ軽キャリー360に乗り換え、お借りしたスズキRL250を積んで大阪まで帰ります。

今の軽は規格660ccですよね。私が軽トラを買った時分は360ccでした。
当時、北米輸出用の車格のSUZUKIジムニーの排気量は550ccで、時効だから白状しますが、以後、全日本の遠征には軽ではきついとスズキSRS(スズキレーシングサービス)に泣きつくと「どうせもうしばらくしたら日本の規格改正で550ccになるし、輸出用の550ccにしてあげる」と言われ、私の軽のスズキキャリーはボアアップした550ccとなるのです。もち、キャブレターもそれに合わせてビックサイズに変更していました。

信じられないかもしれませんが、当時のスズキキャリーもジムニーも「2st」です。だから簡単にシリンダーやピストン交換ができたのです。
で、もっと高速でスピードが出るようにと伝達ファイナルのデフギヤもスズキ軽乗用車アルトか何かの、ギヤ比の速い、つまりバイクでいう「後ろのスプロケットを小さくした」のにも変更していたのです。

この改造でバイクやほか装備一式を積んで、当時の普通車主流排気量の800cc~1000ccと同じスピードで、楽に東名名神を走れたわけ。
はい、当時は軽には車検なんてありません。大政奉還が150年前で、従軍慰安婦問題が72年前のお話です。

で、現在は警察官を退職してすでに34年で、この排気量変更の車両運送法違反は44年前の話で、現職の警察官がそんなことをしてもいいのか、スズキもそんな輸出専用部品を民間人に渡してもいいのかは、実在の新撰組が人を斬りまくっていいのか、と同じく歴史の物語。笑ってお許しくださいね。

それを言うなら、今のパトカーはそんな事はしていないけど、私が警察官になった時代のパトカーは、市販車両をそのまま色を塗り替えてパトカーにしたんでは、いざという時のパワーがないので、4000ccくらいのトラックのエンジンを積んでいました。これは本当です。前のボンネットを開けると、エンジンを入れる部分の前と後ろを大きく広げて縦長いエンジンを入れてあったのを覚えています。

で、このパトカーが消費使用期限が切れて廃車になったら、古物業者が引き取るシステム。業者はそのまま4輪レース専門の業者に「レース用に使う限定、部品取り」とかタテマエでは言って流します。実際は走り屋の手に渡りナンバーがついて、色を塗り替えただけの元パトカーが街中をガンガン走っていたのも事実。

以上、これも歴史という事で「そんなんあったんや~」の範ちゅう、笑ってお聞き流しくださいね。

◎交機隊駐車場で仮眠して出勤

当時はオービスも何もない、深夜の東名名神を、いただいたバリバリのワークスRL250を積んだスズキキャリー軽トラで安心してかっ飛ばし、といってもこの時点では360ccだからそれなりのスピード。

大会翌朝の月曜早朝午前5時頃、大阪市城東区(大阪城の東隣の区だから城東)にある交機隊の駐車場に直接行って、軽トラ車中でウツラウツラ仮眠。
午前9時前「おはようございます~♪」って明るい挨拶をして、何事もなかったように着替えて白バイ訓練指導の本来のお仕事に職務専念したのが、初めて経験したトライアル全日本第2回早戸川大会出場のいきさつ。

今みたいに国の国策で「働きすぎはよくない、休みをとらせなさい」ではなくて、働きものの日本的に「有給休暇をとるのは恥であり悪、働け働け」の考えの時代。
警察は「日曜は休み」という会社ではないから、金土日と3日間連続して休みをとるだけで精一杯、疲れをとるために月曜も続けて休むなんてもってのほか。
休みの遊び疲れは仕事でとる、のが基本だから、月曜の朝イチには「何事もなかった」顔をして出勤する必要があったのです。

 

[これからの事]

いやあ今68歳で、この話が若き独身24歳の時でしょう。44年前のお話なんだけど、思い出すだけで、「頭も体も」若いというのは素晴らしいことですね。

当時、単純に「行けない所が、明日行けるようになる」という、ワクワクどきどき感で毎日を送り、あの「人生幸せいっぱい地球は自分のために回っている」は、いったいどこへいったのか。

今は人生を知り尽くした顔、トライアルを知り尽くした顔をして、何事にも動じないと思っているのはいいけれど、あのワクワク感高揚感のない毎日を送っていてこれでいいのか。

私と同じ食道ガンで逝った赤塚不二夫の名言「これでいいのだ」ではないけれど、「ワクワク感のない日々、これではよくないのだ」に、どうする。

ステージ3まで進んでいた食道&胃ガン全摘出手術から5年経ち、運よく転移も再発もなく、一応はガン完治宣言を受け「5年生存率40%」の、つまり、10人中で4人生き残った仲間に入ったのに、同時期に同じ食道ガンになり助からず先に逝った、藤本義一、やしきたかじん、中村勘九郎の面々からは、三途の川の向こうから「お前は何をやっているんだ」の、お叱りを受けそう。

それと同じく「日英ガン友」であり、私の英語の先生だったイギリス紳士マーチン・ランプキンが、私より若いのに同じ胃ガンで先に逝ってしまい、マーチンの孫とうちの孫の世界チャンピオン争いに参加できなくなり、その分、マーチンの意思も私の背中に乗っている。
マーチンの重い十字架を背負い、また、トライアルで何かをやる。私にはトライアルしかないんで、また何かトライアルのことで先頭を走りたいの思い。

自分が世界選手権を走って、長男の健一も世界選手権を走って、育てた藤波くんが世界チャンピオンになって、女の人も少しだけいじり「もう、俺のトライアルでやれることはすべてやった」の、満足感終了感があったのは事実。

でも息子二人に続き、成長してきた3人の孫も3人ともに「世界チャンピオンになる!!」とトライアルを真剣に始めたんで、また「高校野球までの指導者復活」。

いつこれを卒業し、いつメーカーに引き渡すかも「来年の事を言うと鬼が笑う」どころか、5年先の事もすでに考えている。
健一の時は小学6年まで自転車やらしたんだけど、同じことをしても面白くないんで最初から自転車やらさず、幼稚園年長さんからトライアルをやらせてスタート。

健一の時は1枚カードだけだったけど、今度の世界チャンピオン再挑戦、3枚カードがあるだけに少しだけ余裕だし、健一と二郎という“技とメカのコーチ”の両腕がいるから私は口だけのお役目で、まさに本物の監督業そのもの。

「世界チャンピオンになるには相当のテクニックを教え込まないと無理でしょう」と民間人は心配なさいますが、本当は、もっと大切なのは「海外向けの性格」なんです。

柔道を見ても「日本人だと負けないくせに、外人には弱い」のと、反対に「日本人には弱いけど、外人に負けたことがない」というのがいる。オリンピック金メダル最有力候補の常識、これと同じですね。

トライアルという技を教えることよりも、海外に強い、という強くなる教えの方が今はすり込みの一番。

今は孫もまだ“トライアル風チビバイク”に乗っているけど、小学高学年くらいになってフルサイズに乗ってくると、同じ目的を持った親子が全国から集まってくるのは予想の範ちゅう。これは先代ブラック団と同じで“歴史は繰り返す”ですよ。

さてさてどうなります事やら、こうご期待のほどを。

という事で、これでとりあえずは「黒山一郎といえばスズキ」の、デビュー戦早戸川てん末記はおしまい~っ。次号からは、何のお話になるんだろう‥‥‥。

たぶん「私とスズキと全日本」ですね。


黒山一郎さんの次男、二郎さんの奥さん、まみさんの描くイラスト。一郎さんの孫、りくとくん、じんくん、たおくん。黒山一家の楽しく熱く、そして厳しいトライアル環境の中を元気に育っています。