私のSUZUKIと早戸川 連載・第5回


◎1ラップ終わって時間がなくて大あわて

 神童/木村治男のライディングを第3セクションまで追っかけて見て、3つともに5点だったんで「やっぱり落ち着いた走りは、止まる時はいとも簡単に止まるバイね」と、関西風の常に動くチマチマした走りの方がいいのかな~、なんて思いながら第1セクションに戻る。
記憶では第1はクリーンなんて無理だから、最初からバタバタの3点走法。で、きっちり3点で出た記憶あり。

 この「バタバタの3点走法」の事を当時「ムカデ(百足)やな~」なんて言っていたけど、10年後に世界選手権を走った時、ほとんどのセクションをムカデ走法で走り、イギリス人からその走りを「セントピーと言う」と教えられ、こっちでもやっぱり「バタバタの3点走法」は同じ事を言うんだと思った。

 はいセントピーとは、私にはそう聞こえたんで発音はどうあれ、英語でムカデの事、centipedeです。

 ちなみに同じ意味ですが各国語で最初に覚えた言葉は「フランス語/サンク、ドイツ語/フンフ、イタリア語/チンクエ、スペイン語/シンコ」で、はい英語ではファイブで日本語でゴです。

 それはそうで、大会に出るたんびにその国の言葉でこればっかり浴びせられれば、覚えない方がおかしいでしょうが。

 早戸川、一番上の堰堤(ミニダム)ら付近に3セクション作ってあった記憶があって、混んでいたのは第1セクションだけだったんだけど、この第1で約2時間ほどの時間待ち。あげくに 当時はとにかくコースが長く作ってあって、やたら早戸川を上から下まで走り回った。
当時は「1ラップ目の持ち時間」なんてなく、こっちは勝負なんて度外視していたからチンタラ時間を気にせず走った気がする。

 本流から外れて支流に入り、本流は大きな岩ゴロゴロセクションだったけど、支流セクションはそこいらの木立の間の斜面ターンセクションが多かった記憶あり。
支流のセクションは、狭いながらに登りと下り、つまり行きと帰りの左右にセクションが作ってあって、こっちが行きのコースの時に、帰ってくるあるセクションを近藤博志さん(現エトス社長)がトライしているのが見えたけど、記憶は「乗馬ヘルメットをかぶっていた」だけで、ライディングは覚えていない。

 当時はヘルメットの仕様規格なんてなく、皆それぞれ「頭に乗せるものなら何でもいい」ような風だったから、近藤さんの乗馬ヘルメットに始まり、丸山さんの登山用ヘルメットに、アメ横で買ってきたドイツ軍ヘルメットもいて、皆、多種多様なものをかぶって出ていた。
こっちはそんなん知らないから、大阪南海部品で安全第一「一番強いヘルメットを」と聞いたら「BELLのスーパーマグナム」と言われ、どこ製か知らないけどそれを買ってかぶっていた。

 ずっとあとの全日本で、誰かがヘルメットのつば、つまりひさしだけを外して出ていたけど、どう見てもアホ顏にしか見えなかった記憶あり。という私も一時期、ひさしが邪魔で前が見えないから、ひさしをさかさまに取り付けていた時期もあるから、人の事は言えないわね。

 支流から本流に戻って右側に作ってあった最終セクションの“悪魔の階段”を、これまたバタバタの3点で出た。「アッ、やっと1ラップ終わった」と、ものすごく安心感と虚脱感があったのもこれまた覚えている。

 この悪魔の階段セクション、上のエキスパートクラスはきっちり最後の階段、つまりステアケースをやるラインだったけど、うちらノービスクラスは階段の手前で右に逃げるラインが作ってあって最後のステアケースはやらず。

 この日は確か「15セクション×2ラップ×6時間」だったと記憶しているけど、1ラップ終わってパドックに帰ってきてみると、残り時間は1時間半くらい。
原因は、まず第1セクションに行くまでに、広い河原のあちこちにある激流に変身した小川が立ちはだかり、これを超えて渡るのに相当に手間取ったのと、やっとたどり着いた第1セクションがばか混みで1時間半から2時間待ち
走っている最中にこうなるのは予想の範ちゅう分かりきっていそうだけど、こっちは「そんなの関係ねぇ~」で走っていたんで脳天気そのもの。
でも私についていたパドック待機SUZUKIのメカニックの人が、パドックに戻ってきたら「黒山さん、残り1時間半くらいですよ。もう1回回って間に合いますかね」の言葉で、急にあわてふためき。
言われてからのたうちまわる、の典型やね。思えば、今も昔もこの性格は変わらない。
メカの人にやってもらったのではなく、自分でガソリンを半分こぼしながら、あたふたと一気にドブドブと入れて、2ラップ目の第1セクションに向かって小石を跳ね飛ばしかっ飛ばして行ったのを鮮明に覚えてる。

 他の皆さん、すべて全員「時間がなくて、あわててのたうち回っていた」のは、右にならえで皆同じ。
「熱しやすいのは冷めやすい」のと同じで、1ラップ目に激流だった小川が4時間後の2ラップの頃にはごくフツーの元の小川に戻っていたのも覚えている。

 2ラップ目はすべてのセクションを下見なしで走ったけど、なぜかやっぱり1ラップ目より点数がよかった。最終セクションの悪魔の階段の連続S字なんて、今のノンストップルールよりも多分速いスピードのノンストップで、途中のターンで1回付いただけの1点。
あこがれの早戸川での最後のセクションだから、よく覚えている。

 たぶん、ゆっくり下見をして走ったらまた3点だと思うけど、本能のみで感性にまかせて走ると1点で、投げやりテキトーの方が案外うまくいくのは人生も同じですね。
結果、こっちはスタートの時に決められたゴールタイムに間にあったけど、このゴールタイムがこの大会の、“終わりの波乱”の幕開けとなりました。

◎持ち時間が追加延長になったけど知らない

 本当のところは、いつの時間かタイミングからか分からないけど、大会本部が「誰かが1ラップ終わった時点」で「持ち時間の延長」をしていた。

 多くの多くの、思うにほとんどの参加ライダーはこのことを知らずに、のたうち回って2ラップ終わってあわてふためきゴールすると、関西風に言うなら「兄ちゃん、時間が延長になってんねんで、余裕でゴールや。なにあわててんねん」ですね。

 私らみたいに「勝負のかかっていない、参加することに意義のある」のは「えっ、そうなの、まあ終わったからいいや~♪」で終わりなんだけど、トライアルがお仕事のプロはそうはいかない。

 同じプロでも、時間延長を知ってて余裕で下見をして減点をまとめた組と、時間延長を知らず、タイムオーバーを計算して下見もそこそこにオール3点覚悟、失格回避で走った組とは天と地ほどの差が生まれます。

 はい、私も時間延長を知らない組で、SUZUKI親分の名倉さんはメカニックから聞いて知っていたそうだけど、スカの底辺クラスには連絡が回ってこなかった。
聞いてみると主催側は「1番スタートが1ラップ終わった時点で、受付のカード交換のところに貼り紙していた」だって。
でもそんなん「見たら分かるやろ~」じゃ、タイムがなくてあわてふためいている時には無理。一人一人に「ゴール時間が延長になりましたよ」と言うべきというのは「今から考えると……」の話。

 外国の文化風習を日本の文化風習に比べて「おかしい」というのや、坂本龍馬が今いたらとか、田中角栄が今いたらとかと同じで、昔のことを今の規格感覚で批判しても始まらない。こん時の「始まってから持ち時間延長告知」も、今考えてみるとおかしな話なんだけど、これが歴史というものですね。

◎西山さんが1万円札を持って、万沢さんが猛抗議

 なぜか、近畿のプロというかメーカーおかかえのプロはこのことをちゃんと知っていて、組織メーカーに属さないプロは知らなかったみたい。
今から考えるに、やっぱり「寄らば大樹の陰」ですよね。組織からきちんと情報が入ってきている。

 関西までの帰り道が遠いのに、なかなか表彰式が始まらないから、大会本部まで冷やかし半分様子を見に行くと、西山さんが抗議文書に1万円札をクリップでとめて握りしめ、横で万沢さんが「勝手に時間延長して、ほとんど誰も知らない」と、二人で口角泡を飛ばして猛抗議のまっ最中。
SSDTご三家の一人の成田さんはそこへはいなかったのも覚えている。

 西山さんと万沢さんは喧嘩っ早いけど、成田さんは「火の中の栗は拾わない」タイプだから、喧嘩腰の抗議になるのは分かっていたから行かなかったのもかもしれない。
こん時に思ったことは「抗議するのに1万円いるんだぁ~」ですね。それと文章書くのも私の仕事だから、職業上、西山さんが机の上に置いた1万円札といっしょにクリップでとめてある抗議文書用紙をのぞき込んだら、警察の受け付ける陳情書と同じ格式だったのも記憶あり。

 すべてとは言わないけど私を含めて、大きな大企業の末端社員は「会社方針の異議を上司に訴えても通らない」のを知っているから、体を張った抗議なんて見たことも経験したこともなし。「辞表を叩きつける!!」なんて映画や小説の話だけの世界と思っていたけど「お金を積んで抗議文書を叩きつける」のを見たのもこの時が初めてで、以後、現在まで見たこともない。

 一匹狼筋金入りの個人商店自営業、西山さんと万沢さんの、殴りかからんばかりの体を張った猛抗議を、人生で初めて見たのもこの早戸川。
木村治男さんの「股の下でバイクを遊ばせる」や「失敗しても能面無表情仮面舞踏会」といい、この「恐ろしいほどの猛抗議」といい、人生で初めて見る経験することが多かった早戸川でもあるのです。

 結局、この抗議はとおらなかったけど、以後の全日本はこの経験から、大会中の時間延長には慎重になったみたいだし、第1セクションはどの大会も簡単ラインを作るようになったんですね。

◎近藤さんが勝って、伊吹も勝ってヤマハ圧勝

 伊吹健次って誰も知らないだろうけど、私が駆け出しの頃の関西のすさまじい執念と努力の人。
今で言う国内A級(当時ノービス)なんだけど「頂点に駆け上がり、トライアルで食う/男になる」というすさまじい信念のもと、バイトで稼いだ金すべてでガソリンを買い込み、中古のヤマハTY250Jに中古のオンボロ軽トラで、当時、できたばっかりの京都府亀岡トライアルランドが練習拠点、というより「生活拠点」ですね。

 暗くなって練習ができなくなると、買って持ってきた食パンの耳をかじって山水を飲み、軽トラの荷台にグリーンシートを斜めにかけテントがわりにし、寝袋でそのまま泊り込み。
これが3~4日続き、雨の日もそのまま軽トラの荷台に半分濡れながら寝て練習継続。
1年以上、「練習する→ガソリンとスペア部品と食料がなくなる→町へ戻ってバイトする→まとまったお金が貯まる→また亀岡へ戻り練習する」の繰り返し。

 天気でも雨でも天候関係なしにこれをやるもんだから「ゴホンゴホン」とおかしな咳をし始め、でもやっぱり咳をしながら練習続けて、きっちり結核発病。
結核が判明する前にこの早戸川大会に、私と同じジュニアクラスを戦っています。当然のように伊吹が制したわけですが、結核がわかって「人にうつる」から強制入院生活を余儀なくされて、そのままトライアル界から消えたという伝説の人が伊吹健次なの。

 子分という言い方は失礼だけど、たしか伊吹といつもいっしょに練習していた西田等というのもいて、この人も同じことをしていて結核で強制入院、トライアルを同じように断念した人。
たぶん、伊吹のがうつったのだと思うけど、また逆に、西田が伊吹にうつしたのかもしれない。

 子分の子分もいて、京都トムスの吉川さんとBOSCO MOTOの橘田さん。吉川さんとはあんまり練習したことはないけど、橘田さんとはけっこうよく練習し、ゴホンゴホンとおかしな咳をしていたのを覚えているけど、発病まではいたらず。あぶなかったですね。橘田さん「自分も結核かな~」と、本人もそう言っていた。
私?? 私は大企業に勤めていたから強制的な定期検診があったから、安心とは言わないけど、でもまあ、私も結核にならなくてよかった。

 結核は、今の日本では強制的なツベルクリン反応検査も行われなくなり、特効薬ストレプトマイシンも開発され不治の病ではなくなっています。今や日本では結核は死語ですね。

 トライアル4度の全日本チャンピオンのエトスデザインの近藤博志さんも、駆け出しの頃は、これと同じことを神戸六甲山を拠点としてやっていたなんて話を聞くけど、近藤さんと駆け出しの私では格が違うからいっしょに練習なんてできないし、同じクラスに上がったら私はライバル同士だったんで、あんまりいっしょに練習していなくて本当のところは知らない。

 近藤さん、日雇いタクシーのアルバイトをして、練習できるガソリンを買い込むだけ稼いだらバイトを中止、そのまま六甲山中へ泊まり込み練習。
練習するガソリンがなくなったら、町へ降りていき、またタクシーのバイトして稼いで、また山へ行っての繰り返し。

 伊吹や西田と同じことを近藤さんもやっていたわけだけど、伊吹と西田は近藤さんのマネをやったんだと思う。
伊吹は亀岡へ、近藤さんは六甲へ、私は生駒へ、が生活のすべてだった人生の一時期。

 少しだけ時代が遅れるけど、野田文宏というのが現れヤマハの秘蔵っ子。そのライディングスタイルは師匠の木村治男さんそっくりで、股の間で遊ばせる。関西人のくせに関西のチマチマライディングとは別物。

 この野田も、いい悪いは別として「練習→バイト→練習」の繰り返しをやっていて、頑丈な体をもって結核菌も受け付けずはね飛ばし元気いっぱい将来恐るべしだったんだけど、全日本SUGO大会前の前日土曜日の練習で、一番大切な左人差し指を骨折。
折れ方が悪かったのか、治っても左人差し指の曲がり方がおかしくなり、まともクラッチワークが出来ないそうで、そのままトライアル界からこの人もまた消えた伝説の人。
いやはや良い悪いは別にして、こういう人が、私が頑張っていた時代には何人もいて、今のトライアルの基礎を築いたのは事実。

 少し時代が違うけど、先日の全日本、出れば国際B級クラスで勝つという元国際A級/復活組の北海道の小林直樹さんもその一人ですね。
小林さん、自分にも他人にも厳しいんで、教え指導するんだったら今の若いのはとてもついていけないと思う。

 私みたいに、知能/脳みそがまだ完成していない幼児か子供をさらってきて、しつけも含めて24時間共同生活をしてイチから教えるのがベスト。

 さて早戸川大会エキスパートクラス、関西のナンバー1の近藤博志さんはこれも当然のように勝って、2位は同じく関西の健さんこと加藤文博さん。関西強しは伝統的にこの頃からなのかもしれない。木村さんは3位で名倉さんは5位だった。

 話がまたすっとびますが、2位だった加藤文博さん、トライアル引退後に、空を飛ぶパラグライダーの世界でロールアウトというチームを作り、双子の息子さんのうち豪くんが3度のパラグライダー日本チャンピオンとワールドカップ9位まで登りつめる育成手腕を発揮。自身もフライト経験時間4000時間以上で、モータースポーツとは違う世界で大活躍功績を残します。

 私と同じとは言わないけど、何事にも一生懸命にもの事に打ち込む心さえ持っていれば、自分にあったピッタシの何かに出会った時に夢が開花する、という事でしょうね。

次回でこの早戸川とSUZUKIは完結、乞うご期待を~。


これが早戸川の名所「悪魔の階段」。今回の黒山さんのお話から約10年程後、1982年頃に撮影の写真です。撮影・杉谷真

今月のまみさんイラスト

黒山一郎さんの次男、二郎さんの奥さん、まみさんの描いたイラスト。一朗さんの孫、りくとくん、じんくん、たおくん。黒山一家の楽しく熱く、そして厳しいトライアル環境の中を元気に育っています。